憶良の悲しみ

『悲しみは憶良に聞け』中西進
「貧乏」をうたった、ただひとりの万葉歌人憶良。「貧窮問答の歌」など貧困・病苦・老い・をテーマにした社会派詩人。そこで歌われた悲しみは、現代に通じるものがあることは、一般人にも先刻承知の事柄ではある。ただ著者はこの詩人の深部・深層に迫る。「わが身への愛しみーー生命への愛は、じつははげしい自己の意識に裏付けられたもので、まさしく現代的なもの」であることを証明していく。その「あまりに人間的な」男の人間像に徹底的に迫るのが本書。
 歌人・憶良の根源をたどるとき、朝鮮半島からの渡来人を想定させる。それは、在日・帰国子女の悲しみでもあり、孤独の魂が生んだ「孤語」としての万葉歌にあらわれる。
 ルーツをもたない都会人の悲しみ、それは日本で最初の市民文学として登場する。人間のしがらみ、世間・世の中に縛られて生きる人としての悲しみ。更に倍化されるインテリの悲しみ‥下っ端役人から遅い出世、ノンキャリア公僕の悲しみ‥融通がきかず律儀な性格からくる悲しみ。個人事情としては貧乏の悲しみは名作「貧窮問答歌」に結実。それは病気の悲しみ、老いの悲しみに連続していく。
 望郷の悲しみとしては「韓国(からくに)」をうたいこんだ石の歌「鎮懐石の歌」がある。漂泊と母なる世界への思慕がある。
 愛と死の悲しみ‥親の思いはつねに裏切られる‥悲しみゆえに輝く歌、それが憶良の歌である。