讃岐守の著名人

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   讃岐守であった人には、以下のような著名人がいた。
 
  菅原道真…仁和2年(886)1月16日赴任(42歳)  ちなみに、大宰府左遷は晩年の57歳。  
 道真は京から離れ地方へ下ることを嘆いている。後世の説でもこの人事を左遷とする見方が多い。道真が讃岐守に任命された理由は、財政破綻の危機に瀕した都付近の大国という重要地域の再建のためでありるとしてそれなりの職責があった。 前任者・保則もその後、中央で参議となっているし、道真の後も藤原時平・仲平が権守となっている。この人事は道真が将来において中央政界で栄達することを約束したものとの見方もできる。
  藤原佐理天元3年(980)3月在任(36歳)  三蹟の一人(高松の歴博には国宝「藤原佐理筆詩         懐紙」が所蔵されている。
 
  藤原道長…永観3年(985)正月在任(29歳)  この世をば我が世とぞ思ふ…栄華を極めた人。
 
   藤原公任…長徳3年(996)正月在任(30歳)  「三舟の才」あり、多芸多能の文化人。
  
  『大鏡』 「三舟の才」
ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに作文の船・管絃の船・和歌の船と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」と宣はすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」と宣ひて、よみ給へるぞかし、
  をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき
 申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』と宣はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣ふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
 
 〔現代語訳〕
  ある年、入道殿(=藤原道長)が、大井川で船遊びをなさったときに、漢詩の船・音楽の船・和歌の船と(三つに)お分けになって、(それぞれの船に)その道に優れている人々をお乗せになったとき、この大納言殿(=藤原公任)が参上なさったところ、入道殿が「あの大納言は、どの船にお乗りになるつもりだろうか。」とおっしゃると、(大納言は)「和歌の船に乗りましょう。」とおっしゃって、(次の歌を)お詠みになった。
  小倉山や嵐山から吹く風が寒いので、誰もが錦の着物を着ているように見えることだ。
(自分から)申し出て(和歌の船に乗ることを)お引き受けになっただけあって、(見事に)お詠みになったものだなぁ。御自分でも、おっしゃったそうなのには、「漢詩の船に乗るべきであった。そしてもしこの(和歌)程の漢詩を作っていたならば、名声の上がるようなことも(和歌の船に乗ったときよりも)きっと勝っていただろうに。残念なことをしたなあ。それにしても、(入道)殿が、『どの船に乗るつもりか』とおっしゃったのには、われながら得意にならずにいられなかったよ」とおっしゃったそうである。一事が優れているのでさえも難しいことであるのに、このようにどの道にも優れていらっしゃったとかいうのは、今はもちろん昔もありませんでした。