『奥の細道』 最上川の風流「歌仙を巻く」

 大石田  最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの【風流】ここにいたれり。 

  最上川                                               最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなどいふ、おそろしき難所あり。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に舟を下す。これに稲つみたるをや、稲舟といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に水みなぎって舟あやうし 五月雨をあつめてはやし最上川 

五月廿八日 馬借テ天道ニ趣。六田ニテ、又内蔵ニ逢。立寄ば持賞ス。 未ノ中尅、大石田一英(栄)宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降上飯田 より壱リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳。休ス。 

廿九日 夜ニ入小雨ス。発一巡終テ、翁 、両人誘テ黒滝へ被レ参詣。予所労故、止。未尅被レ帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入、帰。 五月晦日  朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺へ被レ遊、帰、物ども被レ書。

六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐疋、舟形迄送ル。二リ。一リ半、舟形。大石田より出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。 新庄より出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共ニ入ニハ不レ構。二リ八丁新庄、風流ニ宿ス。 二日 昼過より九郎兵衛へ被レ招。彼是、歌仙一巻有。盛信。息、塘夕、渋谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵へ

三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方 より状添ル。大石田平右衛門方よりも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海より禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有)。一リ半古口へ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵ヘ より状添。関所、出手形、新庄より持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。平七 より状添方ノ名忘タリ。 状不レ添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状レ添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。  

四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。

          曾良随行日記