剣持雅澄著『芭蕉来讃夢』

                芭蕉来讃幻影 (一)
 
     行く春を近江の人とおしみける
 近江商人から新田開発を思い付き、四国は讃岐に進出してきたのは、親の代です。その後を継いだ私は、大野原開拓二代目村長であります。
 ちょうどあなたの父上が満洲開拓香川県送出昭明開拓団の団長であったのと似ています。故里を捨てて異郷の地に第二の故郷を築こうとしたところが共通するようです。
 何よりあなたに宛てた父上の満洲からの遺言状に心惹かれるのです。こんな書き出しでしたか。
俳聖芭蕉は臨終の時、弟子から辞世の句と望まれ、「吾生前の句皆辞世の句ならざるはなし」と言った。自分は常に右の事を念頭に置いてゐた。故に殊更遺言めかしきものはない。生涯の言行、是皆遺言と思はれたし。
何よりも「和」が大事。よく大和の精神を発揮して、満洲開拓の大国策に躍進を続けよ。堅忍不抜、目的達成に決死の覚悟を如実に表せ。どこまでも日本人たる自覚を持って、謹厳実直、身を処して偉大なる仕事の完遂に努力せよ。
 このような謙虚で、それでいて矜持と使命感の躍動する宣言であったかと思います。
日中の激突する厳しい時代の中で、甘い情緒に酔うような余裕は感じられないものでした。憂国の志士としての悲壮感が漂い、我らの生きていた元禄の平和な時代とは大きな隔たりがあります。
 何がどう転んでも三百年の時の隔たりを超えて相会い、言葉を交わすことのできない異次元の私どもであります。かろうじてできることは、幻想や妄想の中で架空の通信ができるということであります。全く予想もできない、幽明境を異にした世界からの語りかけでありますから、自他ともに戸惑いすることでありましょうが、しばらくの猶予を経て、交信が続けられますよう、お願いします。お互いに心境は澄みきっているものと判断しております。正しく澄みきっているか、雅に澄みきっているか、ほとんどその差異も分からない明鏡止水の心ではないでしょうか。勝手な想像でものを言っているかもしれませんが、名は実を表すものと信じて疑いません。名づけてくれた親の心の感応とでも言っておきましょうか。
 それにしても、少し履歴をお話ししておきましょうか。ちょっと波乱に満ちた開拓の道ほどでありましたから。
父は近江から四国讃岐に新田開発の地を求めて進出してきました。三十五歳の時、妻に死なれ、四人の男の子は皆養子に出しました。すぐ後添いをもらい、三人の男の子が生まれました。みなすくすくと育ち、仕事にも励み、文芸趣味にも心得がありました。特筆すべきは兄弟ともに一家を構えた春水・春少は各務支考の来讃時に、接待役として句会・芸能祭をして盛り上げました。ささやかながら郷土文学史に残るのは、その時の詠草くらいでしょうか。
 西讃の大野原八幡宮の祭神に平田正澄命が合祀されている。雅澄なる者がこの正澄に特別に関心を持つようになっても、因縁めいたものであった。どこかで通じ合っている人と、できることならば、ことばを交わしたい。すでに神に祭られている過去の人ながら、せめてその声でも耳にしたいと念じていたのだった。
 それがこの度どんな風の吹き回しか、この人の声だけが聞こえて来始めたのである。これはまたありがたいことだった。労せずして、過ぎ去った人の声が聞けるとは、想定外のことであった。こちらが黙っているのに、向こうから声をかけてくれる。幻聴ではない。
 見知らぬ人から電話がかかってきても、相手にしない、甘い話には乗らない、これが年取った者の自己防御策であるというのも世の常識となっているのだが、その声に応えたくなる。
 正澄殿よ、ご存じか。死んであなたは神になった。何よりの証拠に氏神八幡さんに「正澄命」として祭神連名の一柱として掲示されている。他所から招聘した神々と違って、地元に貢献した神的存在として祀られているのである。この「命」は「みこと」と読み、神または神に近い主に対する敬称であることは言うまでもない。
 そしてあなたは「拓士」という呼び名もふさわしいだろう。胸に開拓者魂を備え持っていたことは、ちょうど我が父のそれと通じるものがあって、親近感が湧く。
 あなたの家は金があり余った近江商人の家系だと聞いている。ただ見知らぬ新天地を四国讃岐に求めてきた点では、無一物から大地主にならむとしたと言えるだろうか。
 我が家は違う。父祖からの遺産はなく、口過ぎだけの土地しかない小作農だった。それゆえに中国大陸満洲へ開拓の野望を求めたのだった。それも満洲開拓は聖業であるという国策、その美名のもとに渡満したのである。愚かと言えば愚かなことであった。欺いた国も欺かれた人も哀れにも愚かである。彼の地の中国はいつまでも「自分の国の侵した罪、その歴史を決して忘れるな」と歴史認識をもっ未来志向の日本人に迫る。一度は謝罪。一度謝罪しても足りず、ずっと謝罪せよと執念深く詰め寄る。
 正澄命さま、あなたの七男春水、八男春少は兄弟そろって俳諧に心得があり、各務支考を平田邸にお泊めした時、この俳人を丁重にもてなした。能楽を演じ、俳諧を役柄毎に詠み、心から歓待したことは、その遺作に後づけられる慶事だった。
翁   面箱やそりや吸物に青山椒     支考
三番叟 冷麦になにそなたこそ病気持   春少
高砂  たかさごの松にお出やほととぎす 春水
猩々  芍薬に立て舞をぞ亭主ぶり     除風
太鼓  麦食の拍子やこれも夏大根     桃夭
八幡宮奉納 弓張に放つ影あり子規    支考
当時、支考は、師芭蕉の遺志を受け継ぐ如く、来讃をかなえることができた。
丸亀、金毘羅、善通寺、仁尾を経て観音寺へのコースをたどった。
有明浜  ありあけの浜や昼顔咲きながら                      
 琴弾八幡 琴の音や弓矢のいとま夕涼み                         
一夜庵  松陰や鶴のこころにも一夜庵                             
神 恵 院   さびしさは己頼まじ閑古鳥
 その時の遺文遺句である。。                                 
 一砂老人は、世の味気なきことを悟りて、孫子の栄え行く末を見放し、塚なる方に住みなして、仏の暇ある時は、又俳諧の風流を楽しみ、月次の会をもここにものし給ふとぞ。若き人々、めし喰い酒呑みなん此道に怠るまじき基となれば、西花坊(支考)もここに遊びてこの老人のかたう人になりぬ。  
 俳諧に寝ころび難し蓮の上   支考          
四国の片田舎、僻陬の地において古来伝統の能が演じられるとは、予想もしなかったことである。支考は大江戸を知っているとはいえ、所詮俳諧師である。芸能の素養や造詣が深いわけではなく、庶民の暮らしを共に生きる在野の俳諧師に過ぎない。それでも京に近い近江出身、美濃住民であった。備中岡山除風が招き、更に田舎の讃岐に招いた蕉門の俳人で、同行していた。ここ讃岐の西の果て開拓してばかりの田舎住まいに高尚な能楽が演じられ、謡曲を嗜んでいるとは予想外だった。
 観客は七、八人だった。民百姓が高尚な芸能が分かるはずはない。普段は平田亭内だけの芸能行事であった。地方に俳諧文芸がありえても、貴族的能楽が演じられていたことに支考は驚く。      (以下略)