時雨忌10首

               
            時雨忌10首
  
  芭蕉翁逝きし陰暦十月十二日その年により違うから困る

  うかうかと過ごして今日は時雨忌の翌日といふこと知る不束さ

  俳人の仲間があれば時雨忌の句会などあり季過ごすらん

  旅人と我が名呼ばれん初時雨笈の小文にある秀句なり

  我が家には笈の小文の句碑がある父子で彫りしその句碑永遠に 

  初時雨猿も小蓑を欲しげなり猿蓑に載る軽みの名句

  芭蕉忌の別名時雨忌生涯に時雨を詠んだ句十六句あり

  翁逝きし元禄七年十月十二日時雨るる大坂花屋の仮寓

  義仲寺に遺言通り葬られ背中合わせに義仲眠る

  この翁の墓に詣でしこともありその友も今は亡き人となり  

   【追補・再録】
 生涯の芭蕉の句皆辞世なり 我が言行も全て辞世なり    勇
 幼くて父を知らずに生きて来し 遺言状の芭蕉を倣う     雅
 一旦は血脈断たむと抗えど 蕉風という奥義に拘る      佳

俳諧は三尺の童にさせよ」 周知の芭蕉の言葉 「俳諧の華は新しみ」と言った芭蕉「新しみ」を獲得するには子どものように邪念のない眼と好奇心が必要である。素直さ、初心に返ることが大切なのだ。 「日に新しく、また日々に新しく」

「正風俳諧万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり」とは芭蕉不滅の名言である。 万葉集もまた我が血脈に継承されている。鹿持雅澄→剣持雅澄

  「誹諧は中人以下のものとあやまれるは俗談平話とのみ覚たる故也。俗談平話をたゞさんが為なり。拙きことばかり云を誹諧と覚たるは浅ましき事なり。誹諧は萬葉集の心也。されば貴となく賤となく味ふべき道也。唐明すべて中華の豪傑にも愧る事なし。只心のいやしきを恥とす」  「遺語之部」(芭蕉の言葉)の冒頭「祖翁口訣」
俳諧大辞典』(明治書院)は、『一葉集』に「右の條々祖翁口訣と云」と付記して採録されて以来、芭蕉自ら門人に教えたことを記録したように信ぜられてきている。

    精神の高さ・深さ・純粋さ 「風雅の誠」
  近世では,ときの教学としての儒学とりわけ朱子学がもてはやされた結果〈誠者天之道也〉(中庸)の考えが広まり,〈誠〉は天地自然を生成運行する根源的ないし人間の諸活動の源となる創造力の原理・本体として位置づけられるようになった。
 芸術の分野では,あらゆる対象の中に宇宙の生命(小宇宙)を認め,その生命と感合することで自己の本性を明らかにしようとする芭蕉の〈風雅の誠〉論あるいは〈まことの外に俳諧なし〉(独ごと)と喝破した鬼貫の俳諧論を生み出している。一方、賀茂真淵は歌論で心に思うことを理・非理にとらわれることなくそのまま表現すべきだという〈歌の真言〉説を主張している。

   永遠の旅人…心のふるさとへ回帰   ~故郷なんぞ墳墓の地ならん~
          忌まわしい年貢からの開放の歌句を捧げむ遥かな父祖へ

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          父子で彫った芭蕉句碑    旅人と我が名よばれむ初しぐれ   芭蕉
         (所在地、観音寺市柞田町)