永井隆と森川義信、その愛の位相

長崎の鐘』『この子を残して』の永井隆と無名に近い戦没詩人森川義信。その生没年月日を併記してみると

永井 隆 明治24年2月3日生~昭和26年5月1日没 享年43歳   白血病 父は医師

森川義信 大正7年10月1日生~昭和17年8月13日没 享年25歳 戦病死 父は医師 

 どこに共通点があるか。父親が医師であったこと、戦争犠牲者であったこと、その程度であって、あまり縁のない人と言わねばなるまい。ただ、私の個人的関心で両者を共に追い求めている。今年の年間計画で言えば、戦後77年の8月9 日長崎原爆記念日と13 日の森川義信没後80 年を共に回想慰霊の日にしたいと念じている。

 永井隆を知らない人はないほど著名な歴史上の人物なので、説明不要であるが、森川義信は戦後詩人「荒地」の鮎川信夫の親友で『森川義信詩集』を「遺言執行人」として出版してあげた。特に「勾配」を高く評価して世に紹介した。高校現代文の教科書にまで「死んだ男」Мとして登場させている。友情の篤さに心惹かれる。森川義信の心の深さ、優しさは、彼自身の竹馬の友への鎮魂詩にも如実に表れている。

 愛の深さ、広さから言えば、永井隆の「如己愛人」を信仰する隣人愛・博愛の精神には畏敬の念を払うしかない。言えば尽きない全国民周知のことである。ここで触れることさえ躊躇われる既成の事実である。

 今年いっぱいこのテーマで掘り下げて生きた戦後77年、私自身の戦後処理を短時間でしなければならないと思っている。

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永井隆一家の生死の分かれ目⋯⋯『この子を残して』より

 

 戦争はいよいよ激しくなり、あいつぐ空襲に大学病院は患者で満員となった。私の教室はまるで野戦病院のようだった。夕方になると私の脚の力が抜け、筋肉がひきつったりして、階段を昇るときなどには看護婦さんから押し上げてもらった。それを見て笑う者は私自身だけであった。学生さんが走り寄って来て、私の手にもった参考書を代わりに運んでくれたりした。みんなにいたわられながら、私は楽しく忙しく立ち働いていた。
 ――そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定よりも早く動けない体となってしまった。――ありがたいことには、たまたま三日前に、山のばあさんの家へ行かせた二人の子供が無傷で助かっていた。

 不幸中の幸い、誠一とカヤノは母親の実家に行かせていて、命拾いした。妻(この子の母)は焼け死んでいた。隆自身は原子病の追い打ちで重症化された。それでも、その後約5年間頑張って治療・研究・執筆活動にいそしむ。それはとても普通の人ではできない営みであった。神(信仰)の力に負うところが大きいものだった。