高松空襲のこと 昭和二十年七月三日~四日

 三日の夕方家の中は暑いので、八幡通りの人と荷車しか通らない緑湯という風呂屋の前で、子供たちは輪になって、目隠し鬼などして遊んでいた。

「今日はサイレン鳴らんのう」

「岡山が焼けたんやと。次は高松やいうビラがまかれたんやと」とか、大人も外に出て話をしていた穏やかな夕暮れだった。

 父36 歳、母32歳、附属小学校二年生七歳の私、妹二人。庭には父が誰かに手伝ってもらって掘った穴ぐらのように小さい防空壕

 そこには食料品や日常必要なもの、上等の陶磁器などが入っていて、一度だけ入ったが、土臭く息がつまりそうだった。多分国の命令で壕は掘らねばならなったのだろう。到底一家五人が入れるものではなかったと思う。

 三日炎天の中、母方の祖父と父は浜ノ丁から鬼無の知り合いの家まで疎開の荷物を運んだ。やっと二日間荷車を借りて何度も往復して、郷東川の坂道は難儀したと、後々まで父は話していた。旧高松駅に近い祖父の家々の方が先に爆撃されるだろうと考え、祖父の家を先に、四日早朝から早朝から天神前の我家の荷物を出すことになっていた。夜、父はとても疲れて行水をして皆早く寝た。黒い布をかぶせた電灯の下で夕食をとり蚊帳に入り、枕元にはいつもの通り防空頭巾、袋などそろえて眠った。

 突然、ザ―ッという音と共に両親の切羽詰まった叫び声に「空襲や」と分かり、言われるままパジャマの上に頭巾、肩掛け袋、夏布団をかぶり、玄関にあった上等のポックリをはいて、家を出た時は、人々は道路を逃げ走り、両側の家々も燃え始めていた。ザーッという音、ヒューンという音、燃え上がる家々、多分七ヵ月の身重の母と背負わされたに歳の妹。子ども二人が家を出たのは近所で一番遅かったのでは、と両親は戦後言ってくれた。

 私は必死で母の後を熱風の八幡通りを左に曲がり、栗林公園の方に電車道を逃げた。

公園までは通り抜けず、途中で道路の左側の川に入った。沢山の人が川に入っていた。普段は汚い茶色の川だったが、熱くて川に入った。私も妹もぽっくりを流されてしまった。ここは駄目だと母は思ったのか、私と妹を川から出し、身重だった母はなかなか川から出られず困っていると、誰かが後から押してくれて出られた。その時その付近は焼け落ちてしまったのか、空地だったのか、川の北側に入口を南に向けた防空壕だけが見えていた。 

 ヒュー、ドカンと言うごとに人は影絵のようにゆっくり動いたり、走ったりしていたように思う。誰かがあの壕にゆけとむ教えてくれた。その中を裸足で走りたどり着いたが、もう一杯だから入れないと言われたが、無理に入れてもらう。母がその壕の蓋のような形になっていた。その後、カーキ色の国民服の町内会長風の方が入って来られ、爆弾の直撃で亡くなられたそうだ。

 飛行機の音がだんだん遠くなり、夜が明け始める。囲りは異様に静かだった。私たちは亡くなった人に手を合わせて壕を出た。大勢入っていた大きな壕だったが、どのあたりにあったのか、分からない。

 母は爆風で眼と腕に火傷をしていたが、私たち三人姉妹は傷一つ負わず、助かった。夜が明けてか銃をかついだ兵隊が線路を脇目もふらず行進していった。どこから来てどこへ行ったのか、今も不思議に思う。また、沢山の死体傷ついた人を見たはずなのに、何も感じなくなり、怖いとも感じなくなっていた。ただ、母を助けなくてはと妹の手を引いて、暑さも空腹も感じず母の後に付いて行っただけだった。

 私たちが逃げたコースは、一番多くの人が亡くなった六角堂近辺で、中新町のロータリ辺りである。誰かに次々と助けられて、奇跡的に助かったとしか思えない。今にして思えば、32歳の母は強かったと感謝するばかり。

 普段二、三分で辿り着ける栗林公園に、やっと着いた時、公園の緑が印象に残ったことが忘れられない。入口に近い所に倒れ込んだこととしばらくして乾パンを配ってくれたこと、そして人は皆のろのろと動き、近くから人を探しに来た人の、白い上衣が今も目に焼き付いている。

 そのうち父が公園に私たちを探しに来てくれた。父が高中に着く前に校舎は燃え尽き、途中で引き返したようであるが、やはり大変な思いをして逃げたのだと思う。何故か妹も私も父がどう助かったのか聞いていない。その日は鬼無の知り合いでお風呂に入り、夕方には国鉄で父の実家の豊浜に着き、その後そこで過ごすことになる。

 五歳の妹は長い間川の中のゴミを見ると、死体に見えたらしく、おびえていた。

 高松空襲のこともだんだん遠くなったが、後に母方の親戚の女学校一年生が八幡様のお旅所で爆弾の直撃を受けて亡くなったと聞いた。

 それから祖母の家で空襲もなく過ごしたが、涼み台から広島が燃えた夜も頭上をB29の編隊が通過するのも心配しながら見たこともある。戦争を経験した方も、両親もすでに亡くなり、もっと話を聞いていたらよかったのに、と思うこの頃である。

(眞鍋惠子)