記憶に残る「高松空襲」

 私は77年前の「高松空襲」をいまだ強烈に、鮮明に覚えている。忘れないように書き留めたいと思った。

 1940年10月15日母は私を高松市浜ノ町の実家で出産した。当時父は単身赴任で兵庫県西宮市の女子高校で国語の教師をしていた。

 私が15日に生まれて祖母が報告したのだろうか、10月29日に父から母へははがきが届いていた。最近荷物整理をしていてみつけて驚いた。29日のはがきの消印の上に「国債の力で築け新東亜」とスタンプされている。あまりにも懐かしく何度も読み返した。はがきには(抜粋)「お手紙見て浩子も丈夫なので安心しました。浩子は文字もよし音もよし、12月になったらこちらに来られるようにそれまで家を探します。靴はなくて困っているところです」とあり、両親の暮らしが暮らしがなんとなく想像出きるようだ。

 私は西宮で2年間両親と姉とで過ごした。

だんだん戦争の影響が出てきて日常生活が厳しくなってきたこと、私が肺炎になるなど病弱児であったことで高松市天神前の家に帰って来た。

 父は高松中学に国語、漢文の教師として赴任した。毎日アルマイトのお弁当箱を持って出勤、中身は何だったかな。

 天神前、家の近くの八本松は八本の松が植わっているロータリーで電車の停留場でもあった。乗降の記憶はあるけれど、どこへ出かけていたのだろう。

 姉は7歳、私は4歳、ここで産まれた妹は2歳になり、世の中の状況など知る由もなく、姉妹で賑やかに過ごしていた。

 ある日玄関横の6畳間のタンスの下段を開けてびっくりした。クレヨン、クレパス、鉛筆、ノート、紙がぎっしり詰まっていた。上の引き出しには肌着が一杯だった。「こんなに沢山どうしてと聞くと母は「物が無くなるので買い置きをしている」と話した。私はこの新品のクレヨンをいつ使えるのかな、と思いながらしょっちゅうタンスの中身をわくわくしながら確認していた。

 こんな日常が昭和20年7 月4 日未明の高松空襲で一変した。突然ヒューヒュー、バリバリという爆音に起こされ事情が分らぬまま、母は子ども3人に防空頭巾をかぶせて、ぽっくり下駄(なぜ普段履きの下駄でなかったのかな)をはかせ、妹をおんぶして姉と私の手をしっかりと握りしめて外に出た。父は学校に飛び出ていった。外は建物が真赤に燃えていて、B29からの焼夷弾は容赦なくザーザーと降ってくる。

 私たち4 人は燃えていないところを逃げていたが、あまりの熱風に動けなくなった。細い川にたどり着き、 4 人は飛び込むようにして中に入った。防空頭巾は重くなるし、ぽっくり下駄はプカプカ浮いて流れていき裸足になった。

 母は私と姉を川の淵に出したが、2 歳の妹をおんぶしてお腹には7 ヵ月の赤ちゃんがいる体では川から出られない。手を引っ張ってもどうにもできない。辛くて泣くだけ。その時誰かが母を引っ張って出してくれた。 

 命の恩人がいた。助けてくれた。

 4 人で手を強く握り合い、その場を離れたとき、ザーザーと焼夷弾が川の中に落ち、言葉もなかった。それでも前に歩く。

 目の前に防空壕を見つけた。入り口しか空いていないと言われたが、子どもを奥に押し込み母は防空壕の蓋をするように座り込んだ。すぐに女の人が来て入口の蓋になった。どのくらいか経って焼夷弾がザーザーと目の前に落ちてきて、この人は亡くなった。私は声もなく固まって動けなかった。母は目の上を怪我したが、この人は私たちの身代りとなってくれた。命の恩人がいた。

  周囲が静かになり、この人の横をこわごわすり抜けるようにして防空壕を出た。焼け跡のくすぶる火や、匂い、倒れている人を見なが熱い土地を裸足で歩き、栗林公園北口にたどり着き、入ってすぐの築山に倒れ込んだ。

 もう一歩も歩けない。周囲には沢山の人が無言で座っていた。

 高松空襲午前2時36分から4 時42分の出来事だった。

 夜が明けて誰かがカンパンを配ってきた。食べた。

両親は公園で会うことを決めていたのか、私たちを探す父の「恵ちゃんー

浩ちゃんー」の声で奇跡的に合流できた。どんなにか感激の対面だっただろうか。

父は鉄の骨組みだけの乳母車を見つけてきて、子どもを乗せ空襲の跡地をガダタと鬼無の教え子の家に向かった。二日後に父の本などを疎開させてもらう予定だった。休ませていただいた。

 鬼無駅に汽車が通るとのことで、父は母の眼の治療、子供のこと、母の出産を考えて、予讃線豊浜駅の実家に帰ることを決め列車に乗った。

 家もクレヨンなどもなくなり「焼け出された」家族になった。

8月終戦になるまでのこと、終戦になってからのこと沢山のことがあった。

両親は必死になり私たちを育ててくれた。

空襲の後、私は何か月も喋らなかった。

母は11月妹を無事出産した。

私は今81歳を生きている!

地球上に、飢餓、内戦、紛争、戦争などが無くなりますように!  

                令和4年2月 浩子

 

 

   高松空襲 昭和20年7月4日午前2時56分~4時42分

   ボーイング故B29 およそ116 機

   死者    1359 機

   家屋消失  1万8913人