島ひろし略伝

  島比呂志     1918年7月23日 ~ 2003年3月22日    日本の小説家 

 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校 東京高等農林学校獣医学科卒業。

1940年(昭和15年)東京高等農林学校卒業後、満洲国立大陸科学院獣疫研究所に勤務。1943年(昭和18年) 東京高等農林専門学校(現 東京農工大学助教授に就任。

1947年(昭和22年)6月、ハンセン病を発病し、国立療養所大島青松園に入所。1948年(昭和23年)6月、国立療養所星塚敬愛園へ転園。1958年(昭和33年)より、同人雑誌『火山地帯』を主宰。1990年(平成2年)6月、エイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。これが島を動かすことになる。

1995年(平成7年)7月、「患者の権利法をつくる会」事務局長池永満弁護士のもとに島比呂志の手紙が届いた。これが国賠訴訟のキッカケとなる。同年7月20日、「けんりほうnews」48号に島が「法曹の責任」を発表。同年9月1日、九州弁護士会連合会(九弁連)へ申立書「らい予防法・優生保護法について」を提出。同年11月7日、九弁連は上記申立書を受けて人権擁護委員会(池永満委員長)が星塚敬愛園を訪問。島に聴き取りを開始。

1940年(昭和15年)東京高等農林学校卒業後、満洲国立大陸科学院獣疫研究所に勤務。1943年(昭和18年) 東京高等農林専門学校(現 東京農工大学助教授に就任。

1947年(昭和22年)6月、ハンセン病を発病し、国立療養所大島青松園に入所。1948年(昭和23年)6月、国立療養所星塚敬愛園へ転園。1958年(昭和33年)より、同人雑誌『火山地帯』を主宰。1990年(平成2年)6月、エイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。これが島を動かすことになる。

1995年(平成7年)7月、「患者の権利法をつくる会」事務局長池永満弁護士のもとに島比呂志の手紙が届いた。これが国賠訴訟のキッカケとなる。同年7月20日、「けんりほうnews」48号に島が「法曹の責任」を発表。同年9月1日、九州弁護士会連合会(九弁連)へ申立書「らい予防法・優生保護法について」を提出。同年11月7日、九弁連は上記申立書を受けて人権擁護委員会(池永満委員長)が星塚敬愛園を訪問。島に聴き取りを開始(後略) 

 私の手は曲っている。しかし掴まねばならない。
 歯が抜けている。だが噛まねばならない。
 眼球を失っても 見ねばならず、足を失っても
 歩かねばならない。
 あなたも生きているように私も生きる。
 私も生きるようにあなたも生きる。

☆島比呂志没後20年、 ハンセン病の理解を深めようと 3月26日、観音寺市立図書館でSymposium