『万葉集』巻5ー892 貧窮問答の歌一首 短歌を併せたり

貧窮問答の歌一首短歌を併せたり
 風雑へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 《糟湯酒》 うち啜ろひて 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 服襲へども 寒き夜すら 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 吟び泣くらむ 此の時は 如何にしつつか 汝が世は渡る
 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾を作るを 綿も無き 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる 襤褸のみ 肩にうち懸け 伏廬の 曲廬の内に直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 鵺鳥の 呻吟ひ居るに いとのきて 短き物を 端截ると 云へるが如く 楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術無きものか 世間の道
 
 893 世間を憂しとやさしと思へども
    飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
  山上憶良頓首謹みて上る  『万葉集』巻五 892・893