勾配 森川義信
非望のきはみ/非望のいのち/はげしく一つのものに向かって/誰がこの階段をおりていったのか/時空をこえて屹立する地平をのぞんで/そこに立てば/かきむしるように悲風はつんざき/季節はすでに終わりであった/たかだかと欲望の精神に/はたして時は/噴水や花を象嵌し/光彩の地平をもちあげたか/清純なものばかりを打ちくだいて/なにゆゑにここまで来たのか/だがみよ/きびしく勾配に根をささへ/ふとした流れの凹みから雑草のかげから/いくつもの道ははじまってゐるのだ
時代の傾斜を痛いほど感じ、現代人として思想的に苦悩し、生きてゆく精神風景を描いている。暗い青春を共に生きる厳粛さがあり、抒情の衣装を脱ぎ捨てたモダニズムの詩風である。親友鮎川信夫もまた戦死した彼を念頭に置いて「死んだ男」と題する戦後詩の記念碑的作品を作る。自分はボルネオから生還したが、友は戦病死して帰れなかった負い目があったのか、自らを「遺言執行人」になぞらえ、地下に眠るMに呼びかける詩である。
わずか十八行の短詩であるが、ままならぬ青春の心の傾斜がはるかな地平と交叉して、「非望のきはみ」にはじまる道を見出す痛ましさが感動を呼ぶ。昭和十四年(二十二歳)の作。三年後の昭和十七年八月十三日(二十五歳)ビルマのミートキーナで戦病死する。この詩は観音寺市粟井町本庄の生家前に詩碑として刻まれている。
鮎川信夫編『増補森川義信詩集』(平成三年一月十日国文社発行)は唯一の遺稿詩集で、現代詩の原点を築いた森川義信の決定版詩集である。また、鮎川信夫著『失われた街』(昭和五十七年十二月十日思潮社発行)は親友による森川義信伝として貴重である。鮎川は森川の戦病死を知ってほどなく入営、昭和十八年スマトラに従軍、翌年病気で内地送還、生き残る。この運命の違いが、鮎川をして森川に対する負い目となる。
「死んだ男」を作ることによって親友を蘇らせ、自らの負い目から解放されることになる。すでに鮎川信夫は逝き、二人の友情も次第に忘れ去られようとしているが、ここに語られている詩魂は消え失せるはない。心深き詩人は心深き友に語り継がれて永遠に救済される。
義信の妹今滝康子小児科医院院長は言う。「鮎川信夫さんあっての森川義信です」と。逆に言えば「鮎川信夫がいなければ詩人森川義信はない」ということだろう。田舎から出てみずみずしい感性を持つ森川に鮎川は都会育ちの自分にはないものを見出し、親密につながるようになったのにちがいない。
日本の戦後詩を代表詩する「死んだ男」はM(森川義信)に語りかける。
たとえば霧や/あらゆる階段の跫音のなかから/遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す/これがすべての始まりである。(中略)Mよ、昨日のひややかな青空が/剃刀の刃にいつまでも残っているね。/だがぼくは、何時何処で/きみを見失ったのか忘れてったよ。短かった黄金時代/活字の置き換えや神様ごっこ
「それが、ぼくたちの古い処方箋った」とつぶやいて⋯⋯/いつも季節は秋だった、昨日も今日も/「淋しさの中に落ち葉がふる」/その声は人影へ、そして街へ、/黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。/埋葬の日は、言葉もなく/立ち会う者もなかった。/憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかったのだ。/「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」/Mよ、地下に眠るMよ、/きみの胸の傷口は今でもまだ傷むか。
森川義信自身、戦没の幼友達を傷む詩を作っていたことが発見され、『増補森川義信詩集』に「上等兵安藤孝雄を憶ふ」の一編の詩が加えられた。
友よ お前は二十歳/ひととき朔北の風よりも疾く/お前の額を貫ぬいて行つたものについては/もう考へまい/わたしは聞いた大きな秩序のなかに/ただ はげしい意欲を お前の軍靴の音を/わたしのの力いつぱいの背のびではとどかない/流れよ 幅広い苦悩のうねりよ/友よ 二十歳の掌のなかで燃えたものよ
この詩は昭和十二年(一九三七)冬北支にて日中戦争で戦死した友を憶う詩である。このように義信は優しい心の青年であったからこそ、東京で在学中の詩友にも深い想いをかけられたと言える。
平成九年(一九九七)第十二回国民文化祭が香川県で行わた時、オープニングで歌われた
曲は義信の「青き蜜柑」が作詞として紹介された。作曲は山本純ノ介による。
- 愁い来て丘にのぼりて/酸の香る蜜柑もぐなり/悲しみの青き蜜柑を/
- 栗林越えて見ゆるは/背きにし君の町なるぞ/ゆふぐれに深く沈みて
- 四、五は省略。「栗林」は高松のリツリンではありえない。五音のクリバヤシのはずである。
とにかく、香川県の代表詩として森川義信の詩が二十一世紀の讃岐に伝える詩として選ばれたことに対して矜恃を感じる。説明書きには次の如く記されている。
森川義信は、戦争により惜しくも二十四歳の若さでこの世を去った、香川県出身の天才的詩人。森川氏が残した讃岐の情感あふれる詩に、讃岐の穏やかさを見事に表現する旋律をつけた作品。今後、讃岐の人々に歌い継いでだきたいという、思いをこめた曲である。
令和四年八月十三日、森川義信没後八十年を紀念して『詩人森川義信伝』小冊子を発行した。「ミートキーナに死す」と題した短編小説を同人誌「小説無帽」に発表していた作品を新書版にしたもの。筆名を剣持雅舟にしている。直後、中央図書館でこの講演を四国新聞が「夭折詩人しのぶ」と題して紹介された。
観音寺市出身の詩人でビルマ(現ミャンマー)で戦病死した森川義信(一九一八~四二)をしのび、作品を鑑賞する集いが同市内でた。郷土史家の野口雅澄さん(八四)の講話を通じて参加者は「勾配」などの傑作を残して二三歳で夭折し、今月一三日に没後八〇年となった森川の詩才を惜しんだ。
戦後詩壇を牽引した鮎川信夫と親交があり、鮎川の名詩「死んだ男」は親友森川への挽歌であったとされる。鮎川は森川の死を悼んで自らを「遺言執行人」となぞらえ、自身の手で『森川義信詩集』を出版した。
集いで野口さんは「勾配」を独自の解釈を交えて約六十人の参加者に披露。「はたして時は(中略)清純なものばかりを打ちくだいてなにゆえにここまできたのか」の一節にこの詩のテーマが凝縮ているとし、戦争に向かっていく時代の趨勢を逸早く感じ取っていたのではないか。背景に日本の在り方に対する恨みがあるように思う」と指摘。鮎川はこの詩を高く評価して繰り返してきた。「森川はむなしい死だったかもしれないが、鮎川に見出され、作品は遺産として永遠に残ることになった」と語った。