高橋和巳『捨子物語』一節

 船坂山や杉坂と/恩と慕いて院の庄/微衷をいかで聞えんと/桜の幹に十字の詩⋯⋯/「十字の詩」の歌や「桜の円舞曲」、「村のかじ屋」や「八十八夜」など。歌われることの意味は小学生にもよく分った。私は※「天勾践を空しゅうすること勿れ」という一節が好きだった。奇妙に歪んだ苦悩の形式、理由もなく頭をうなだれて歩みゆかねばならぬ運命や、それと対照的にやがて私の頭のうえにも燦々と輝くかもしれない成功と喜悦を、それから読みとるのだった。私はすでに美的なものの忘却の作用に浴する、あの幽かな悲しみと喜びを知っていた。そして、墜落してゆき、途中で自制することでいっそう拡大される堕落の甘美な感触も味わった。 そうした数々の素朴な歌曲は、たいがい、詠み人知らずのものだった。

 『 捨子物語』  太平洋戦争末期、空襲で破壊されて行く大阪を舞台に、複雑に入り組んだ家族環境の下で育つ少年を描いて、死の淵を歩む自らの生の根源に降り立った高橋和巳の処女長篇小説。

勾践は中国春秋時代の王。范蠡に敗れた勾践を助け、呉を滅した忠臣。天は勾践を見捨てない。時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。南北朝時代児島高徳 が捕らわれの後醍醐天皇に、自分の志を示すため桜の幹に書いたという「太平記」巻4に見える詩句による。