俳祖山崎宗鑑 400年忌に

 
 俳諧の始祖・山崎宗鑑の400年祭は、昭和26年11月に観音寺市興昌寺【一夜庵】
で行われた。その記念碑の碑陰に当地の俳人、幽石・琴邨・山石の奉納句が刻まれている。
イメージ 1
 
イメージ 2
    日本の俳祖・宗鑑終焉の地 【一夜庵】 ー香川県観音寺市八幡町ー 
 
イメージ 3
イメージ 4
        芭蕉は訪れていませんが、追悼の句を遺しています。
      ありがたき姿拝まん燕子花   はせを
 
   (俳都・子規の松山といえども、たかだか百年の歴史しかない。
    我が俳祖宗鑑の終焉の地は四百五十年の歴史をもつ、などと嘯いた
    ものですから、教育長に顰蹙を買いました)
 
 
    ★俳諧の始祖【山崎宗鑑】 私論  
            2007/12/10(月) 午後 11:52(観音寺処々)   《再掲》
 
  近代俳句は、正岡子規高浜虚子愛媛県松山市が発祥の地ということができる。ただ、歴史的にみると、これは俳諧連歌の発句に遡ることになる。その嚆矢として荒木田守武山崎宗鑑が俳祖ということになるのは、俳諧史の常識である。宗鑑については確証になる文献に乏しいが、伝承は伝承とした上で推定扱いとして認められるべきであろう。 
 死没年月日を確定する根拠はない。残念ながら一級資料としての過去帳は発見されていない。ただ、遺品遺物は終焉の地観音寺市八幡町興昌寺に保存されているが、それ以上は踏み込めていないようだ。それだけに未知の部分が残され、今後研究の余地はある。
 一夜庵。これが宗鑑の住まいとして伝承されている市指定の有形文化財である。県または国のものになるにはそれ相応の典拠を必要とする。新たなる一級資料の発見を期待したいところであるが、かなり厳しい状況ではなかろうか。埋蔵文化財の発見のように画期的発見に遭遇しがたいだけに、悲観的ではなかろうか。他所に宗鑑死没を実証する文献文化財資料が出れば別だが、伝承さえないところに新発見は求められないのではなかろうか。 宗鑑没して450年。今更どうしようもない時が流れ、真偽の確定を越えて、伝承としての「俳諧独立気運の地」を大切にすべきであろう。
 観音寺は四国88ヶ所札所として巡礼、観光の地だけではなく、俳諧文学の濫觴としての山崎宗鑑ゆかりの地として広く全国に知ってほしいのである。