鹿持雅澄 

  鹿持 雅澄(かもち まさずみ)

寛政3年4月27日~安政5年8月19日

 私にとっては宿命的な万葉学者【鹿持雅澄】である。
土佐人鹿持雅澄は大著『万葉集古義』を著している。時に「土佐の地を一歩も出ずに」と言われるが、記録に残っているもので二十三歳の時金比羅さん参拝していて、土佐一国にこだわることはない。業績は全国区。その他の著書として幡多日記やいくつかの歌集も残している。
 高知は元来恐妻家も多いわりに、愛妻家の少なくないところだといわれる。こうした郷土色を反映して、全国でも珍しい「愛妻之碑」が高知城内に建てられている。「愛妻之碑」を建てるにあたり選ばれたのは、愛妻家鹿持雅澄の歌である。

   秋風の福井の里に妹をおきて安芸の大山越えかてぬかも  雅澄

 この前に立つといつも、愛妻家でない自分が恥ずかしい。二重に恥ずかしいのは、その墓前に立つ時だ。鹿持神社と雅澄の墓所は鹿持邸址から北西を見上げた丘の上にある。自らあつらえたという墓は菊子夫人の墓と仲良く並んでいる。右が雅澄の墓で、墓碑の右側面に万葉仮名の有名な辞世歌が刻まれている。
「あれゆのちうまれんひとはふることの吾がはりし道に草なおほしそ」と読める万葉仮名の歌である。
  余以後将生者古事之吾墾道爾草勿令生曾
(私より後に生まれた人は、私が拓いた万葉集研究の道にどうか草を生やさないでほしい)
 怠け者の「贋万葉学者剣持雅澄」を名指しで叱り付けているような気がしてならない。
 そして、まだまだ恥ずかしくなるのは「憂国の志士」戦没の父の遺言状が目の前にちらつくからだ。「おまえの名は、勤皇の土佐人鹿持雅澄からとった。国家になくてはならない人物になれ」とある。讃岐の片田舎で万葉歌絵を描いたり、気楽な万葉講読をして一生を終えようとする丑年生れののろまな私、四十四歳で逝去した父とあの世で対面したら、親子逆転した年齢差なので、ちょっと叱りにくいだろうと高をくくっている。
 天保七年、鹿持城趾に鹿持座神社を造営した。先祖を敬うことにおいて人後に落ちない雅澄が、気がかりにし続けてきたものだった。雅澄の九代前の雅康が初めて土佐に移って来た。応仁の乱で京都を遁れてきた一条房家卿に従って来た飛鳥井雅康である。房家が中村城を構えたのに対し、城下の大方の地に鹿持城を賜った。城とは言うものの、やや大きな邸宅であった。人はここを飛鳥井城とも飛鳥井屋敷と呼んで畏敬した。数代前は京都で二度も勅撰集を選進した家柄なのである。 雅澄はここに来る度に小祠さえないのを気にしていた。それをやっと自分の手で造営でき、その喜びを長い長い長歌にして奉納している。なぜこの年にしたかと言うと、雅康の三代後の右京進の二百五十年忌に当たっていたからである。
 雅澄の住む福井の里に移って来たのは、その孫安治の時で、柳村氏を名告った。雅澄の四代前で、雅澄の三十八歳まで柳村氏であった。文政十一年十二月から旧姓鹿持に復した。遠く遡れば、藤原  飛鳥井  鹿持  柳村  鹿持というようになる。藤原雅澄、飛鳥井雅澄、鹿持雅澄、柳村雅澄というように書き方はさまざまである。      菊地寛記念館 サンクリスタル高松にて
 文芸講座 テーマ「万葉学者・鹿持雅澄について」〔主旨〕 『万葉集古義』を著した江戸時代後期の国学者鹿持雅澄の業績と文学史的意義を講じる。☆その名に縁ある剣持雅澄が熱く語り、熱心に聴いていただいた。 
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