武市瑞山(半平太)墓前祭にちなんで

鹿持雅澄  (寛政3.4.27 ~ 安政5.8.19 )は
 江戸後期国学者,歌人土佐藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派【武市瑞山】の叔母。鹿持は本籍地の名。『万葉集』注釈生命をかけ,生涯土佐国を出ず,ほとんど独学学問研究に励んだ。尊皇論者鹿持雅澄、その著『万葉集古義』141冊は,本文の注釈にとどまらず,枕詞から地理にいたる、あらゆる分野の研究を網羅している大著。 武市瑞山(半平太)の精神形成に感化を与えていたのは、義理の叔父鹿持雅澄であると言える。また、坂本竜馬の生き方に影響を与えることになる。

   剣持雅澄著 「鹿持雅澄伝」(抜粋)
 雅澄が初めて職を奉じたのは、文化十二年、父尉平の代勤としてであった。
 土佐藩の士制は、士格・準士格・白札軽格の三階級に分かれていたが、尉平はその最下級の白札で、三人扶持切米十一石を賜る身分に過ぎなかった。しかも、この役は極めて多忙で、学問好きの雅澄が苦い顔をして勤めなければならなかったのも、もっともなことである。
 二十五歳にして初めて出仕し、士格からは呼び捨てにされる槍持というような雑務に近い仕事であった。武士道というものにそれほど憧れたこともなく、藩士として職に殉ずるほどの気構えもない雅澄に、やがて教授方下役が回ってきた。域内教授館の書写校正係で、極めて閑な役である。そのような配慮をしてくれたのは家老福岡孝則であった。
「付き合いの悪い偏屈者」
「うだつの上がらぬ腰抜け侍」
 世間では陰口を言う者もあったが、孝則は雅澄の真摯な学問態度を見抜いていたのだった。
「雅澄、この殿中の書の数々、閲してよいぞ。また、我が邸の書物も使ってよいぞ。さらに、要あらば、京大阪からも取り寄せてやろうぞ」
「ありがたき思し召し、かたじけのうございます」
 雅澄は家老ともあろう者に目をかけられ、自分の喉から手が出るほどほしかった書物を閲覧させてもらえることが、無上にうれしかった。
「雅澄は本の虫よ。世間知らずよ」
そんな声が聞こえてきても、
「雅澄はほんに本の虫よ」とつぶやくのだった。
 おびただしい書籍、『古事記』『日本書紀』に始まって、『万葉集』関係の研究書、契沖・真淵・宣長のもの、その他数知れずあった。それらを手にするだけでもありがたいのに、雅澄の飽くなき探求心は、
「我もまた古道を明らめむ」
 と著述欲に駆り立てられるのだった。
 雨が漏る。藁葺屋根の葺き替えが遅れている。四畳半に文机を置き書見をしていた雅澄は、机ごと三畳間に運んだ。あれ、ここでも漏る。次は板廊下まで運び直した。
「吾妹児矣、相令知、人乎許曽、恋之益者、恨三念。ワギモコヲ、アヒシラシメシ、ヒトヲコソ、コヒノマサレバ、ウラメシミモヘ。万葉の歌はいつもいいな」
 明り障子を開いてみると、庭の鶏頭の花が雨をしとどに含んで紅色を濃くしていた。
 年老いた祖母と父の三人の鹿持家に、早く嫁はほしかった。すでに許婚の菊子がいたが、先方の意を汲んで十二月まで延ばしていた。
 菊子は郷士武市半八正久の次女である。兄の武市半右衛門正恒は国典に通じ、能書家でもあった。武市家に比べ鹿持家の方が見劣りはしたが、武市家は雅澄の将来を見込んだのであった。
「どんなに貧しくても、あの男は国学の徒として必ず大成するはず。菊、おまえも辛抱強い娘、鹿持家に行ってくれるか」
 父の心からの頼みに菊子はただうなずくのみだったが、その眸には貞女の鑑のような輝きがあった。
 文政二年、菊子は二十二歳、雅澄は二十九歳になっていた。二人の結婚は霧に耐えて咲く晩菊のような、凛然としたものがあった。蝶よ花よと浮かれるような、世の常の夫婦としてではなく、清貧に甘んじて生きることを覚悟した。そうして学者の新家庭が出発した。
「のう、お菊。そなたにはこれからずいぶん苦労をかけると思うが、よろしく頼むぞ。わしはどうしても国学の研究一筋に生きたいのだよ。万葉集の注釈も少しは緒についているが、これを完成しないでは死ねないし、まだまだ他に書き著しておきたいことが山ほどある。藩の勤めも続けてやるが、出世する見込みはない。まあ、なんとか口すぎはできようと思う。それでもいいか」
「ようございます。なにもぜいたくはしたく思ってはおりません。あなたさまに嫁いで参りましたのも、ただあなたさまの学問へのひたむきさをわたくしども、惹かれるところがありまして」
「そうよのう、お父上にも認めてもらったからには、期待に背かないようがんばる所存だ」
「・・・」
 菊子は鹿持屋敷に学者雅澄の妻として嫁してきたのだった。どんな貧しさにも耐えて、男の夢をかなえてあげよう。金持になること、立身出世すること、そんなはかない栄華を夢見たところで、一時のことにすぎない。たとえ今は世に認められなくても、こつこつと研究を続け、わからない言葉をわからせることは尊いことだ。女の自分ではとても及ばないことだけれど、わかろう、わからせようと一心になることぐらい、すばらしいことはない。菊子はまだ年若い妻ながら、いちはやく雅澄のよき伴侶として叡知の眸を輝かせているのだった。
「鹿持屋敷の新嫁さんは、眼がすわっている」
「いや、それは腰の方だろう」
 隣近所は多くなかったが、皆そう言って賞めた。ここ福井の里は、城西一里ほどにある丘陵地帯である。その中腹に古義軒鹿持屋敷があった。東南は小高坂山を隔てて江ノ口・久万の一帯から遠く下知長岡の平野を一目に見渡すことができ、亀が岡はその南から西に延びて鹿持山に連なり、亀が岡の南方にははるかに鷲尾・烏帽子・柏尾の諸山が美しく見渡せた。
 菊子は朝は暗いうちから起きて、かいがいしく働いた。井戸は家の西四、五間の所にあって、深かった。はねつるべで水を汲み、手に提げて勝手に運ぶ。祖母かねがつい昨日までしていた仕事を若妻の菊子がするようになった。俄然、鹿持屋敷に明るさがもどってきた。雅澄十五歳のとき母さよが没してより十四年目のことである。
「これで安心して勤めもできる。古典の研究もな・・・」
 つぶやく雅澄の顔に旭日が射す。土佐の冬は短く、庭の早梅もふくらみ、裏山の椿も咲き出していた。
 雅澄は勤め自体も勤め先の交わりも気の入ったものではなかったが、学問に関しては師につき、友と交わることにやぶさかではなかった。
 すでに二十三歳の頃土佐の国学者として知られた宮地仲枝の門をたたいていた。仲枝の父春樹は、土佐藩の儒官であり、藩校の初代教授役の栄位についた学者であった。また、本居宣長について国学を学んでおり、『万葉集私考』十冊も著している。その子仲枝は学をもって立つ家に生まれ、幼くして谷真潮の弟子となり、早くから博識をもって知られていた。
 江戸に出て、塙保己一の塾に入って『群書類従』の編纂を助けたこともあった。雅澄は宮地門下にあって、豊かな天分と魂を打ち込む精進ぶりとが夙に認められていた。仲枝自身、雅澄がやがて自分を凌駕していくことを見抜いてもいた。
 この頃、雅澄の私淑していた人は江戸の学者清水浜臣であった。なんとかして江戸に出て、
「御面輪を拝みまつらん」
 と消息文に書いて送っている。また、別の長歌も送っている。その最後を短歌でこう結んでいる。
「ささなみのいやしくしくに月にけに恋ひやわたらむはしきわが背を」
 異常なほどの崇拝ぶりであった。
 大阪在住の歌人斎部道足とも文書の交換をしている。それも長歌によっていた。
 雅澄は知識欲に飢えていた。それで、先人朋友に新たな誼みを求めることが多かった。時には招いて飲み語り明かすこともあった。
「瑞枝殿もどんどん飲んでくれたまえ」
「いや、もうほどほどに」
「そんなに言わずに・・・。それにしても、いつぞや貴方に参った時は愉しかったわ」
 雅澄は菊子に酌をすることを催促しながらも、自ら谷景井や南部厳男に酒を勧めるのだった。景井は真潮の末弟万六の子で、雅澄より三つ下の二十六歳であった。(つづく)