柞田村立柞田国民学校における戦争に関する記憶
①昭和20年4月に2年生になってから、学校へは防空頭巾を持って登校した。村内上出・中出・下出250軒は立退き移転で飛行場になっていた。柞田の他の地区から通学、他の町村に移住した者はそこの学校に転校した。在校生が少なくなっていた。飛行場整備で多くの動員された状態であった。警戒警報・空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕に避難する態勢に入った。実際は、防空壕は狭く、少なく、校内に留まることの方が多かった。艦載機グラマンは低空飛行で地上すれすれに来ては去るのを繰り返した。子供は打たれなかったが、大人で流れ弾に当たり即死した人もあった。大型のB29が飛行機雲を引きながら上空を通過した時は恐かったが、大都市を襲撃するものだった。
②各家庭においても屋敷内に防空壕が掘られ、役場から発するサイレンの合図で家族みんなで防空壕に逃げこんだ。夜は電灯の光がもれないよう、灯火管制がなされ、防火用水にはいつも水がためられていた。
③何かにつけ、質素倹約が強いられた。服装は国防色の目立たない色のものを着た。食べ物も麦や芋大根の質素なものだった。「戦争に勝つまでは」ぜいたくは許されなかった。
戦後80年、しだいに風化されていく戦争体験と記憶⋯令和に生き残っている私た戦争遺跡としては母神山の防空壕、下出の軍川が飛行場の名残りをとどめている。
〈追記〉
(1)学校でいる時⋯メガホンで先生が「警戒警報発令」ウ~~~ウ~~~とサイレンが鳴ると、各教室で担任の先生の指示で退避の準備を~る。次いでウ~ウ~ウ~間断的になると防空壕に入る。
(2)家庭においては、役場からのサイレンに従い、その時いる家族は手を取り合って屋敷に設けられた防空壕にすばやく逃げ込む。柞田地区においては流れ弾に当たって即死した主婦が一人あった。
(3)艦載機グラマン機のねらいは、飛行場の軍関係の施設と関わる人にあって、子供までねらわれてはいない。
(4)集団下校が一度だけあった⋯各地区ごとに分団長の引率の下、下校する途中、B29の大型爆撃機の編隊が飛行雲を引きながら上空を通過して行った。爆弾を落されては⋯と恐かった。高松市に焼夷弾を落されたような打撃は郷土はまぬがれた。ただ立退き移転の労苦は消して忘れることができない苦い思い出である。