「八紘一宇」の碑で戦時学習

    戦時遺石「八紘一宇」 観音寺市大野原町下杉林

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八紘一宇 (はっこういちう)
 「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。 第2次世界大戦中に日本の中国,東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。 『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に,田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年に造語したもの。 戦後70年、今なお建てたままにしてある碑。
 
●「八紘山」も戦時色あり。 三豊市仁尾町 八紘山遙拝所は、八紘山山頂にある。
覚城院から軍人墓地横の道をしばらく上ってゆくと、この遙拝所のある広場となる。
 
 いまだに堂々と「八紘一宇」の碑が残っている。平和学習用にはあっていいのだが、臆面もなく道端に立っているのには、いささかの戸惑いと不和感がある。この精神の禍が及ぼしたものを鑑みる時、無神経ではいられない。すなわち、欺瞞行為にごまかされてはいけないという批判精神のあり方に関してである。ロシアの似非正義も、軍国時代の大和魂にもつながるものがある。多くを語るつもりもないが、この碑は見たくない。