.流浪~俳祖【山崎宗鑑】~京阪山崎~讃岐一夜庵
山崎宗鑑は室町時代の連歌師で、近江国志那(現在の滋賀県草津市)の出身。
九代将軍義尚に仕えた武士、その急死に無常を感じ出家、風狂俳諧の道に入り、大山崎まで来たのが30歳の頃。
それ以後この地で長く過ごすことになる。
①京阪[山崎」における宗鑑
若い頃から連歌になじみ、諧謔精神を身につけていた宗鑑は、八幡宮社頭での月例連歌講と霊泉連歌講のリーダーとなり、当時の大山崎の神人・商人の俗に慣れ在来の雅の連歌を離れ、俗の世界の俳諧連歌にのめり込む。その結果の連歌選集が『犬筑波集』 天王山登り口にある句碑、「うずききてねぶとに鳴(く)や郭公」の句は「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギスだ」更に「根太(=腫瘍)が疼いてきて泣いている」という裏の意味をこめた俳諧で、親しかった伊勢の神官の荒木田守武が根太にかかっていたのを揶揄したものと言われている。この句碑の傍の解説立札にはもう一つ宗鑑の句※「風寒し破れ障子の神無月」が記されている。これは歴史資料館に展示されている。言うまでもなく、この句の「破れ障子」を繕う紙と神無月の神を掛けている。
②讃岐「一夜庵」における宗鑑 その後讃岐の興昌寺住職梅谷和尚を頼って来讃、ここが終焉の地とされている。没後500年近いが、宗鑑法師供養塔、墓碑が建てられたのは後世である。遺筆では「紫金仙勧進帳」「宇治の橋姫」短冊等がある。「上は立ち中は日暮し下は夜まで一夜泊りは下々の下の客」は言い伝えだけ。※前出の「風寒し破れ障子の神無月」の直筆短冊は興昌寺にあったが、他所に流出されている。
本日「一夜庵改修記念落成式で、立派過ぎる屋根になり柱も入れ替えられたが、およそ風流風雅とはほど遠い。 宗鑑が苦笑いする神無月 (旧暦10月新暦11月)
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