『源氏物語』野分の巻

 中宮の御前、秋の花を植ゑさせたまへること、常の年よりも見所多く、色種いろくさを尽くして、よしある黒木赤木のませを結ひまぜつつ、同じき花の枝ざし、姿、朝夕露の光も世の常ならず、玉かとかかやきて作りわたせる野辺の色を見るに、はた、春の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうなり。
 春秋の争ひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを、名立たる春の御前の花園に心寄せし人びと、また引きかへし移ろふけしき、世のありさまに似たり。
 これを御覧じつきて、里居したまふほど、御遊びなどもあらまほしけれど、八月は 故前坊こぜんぼうの御忌月なれば、心もとなく思しつつ明け暮るるに、この花の色まさるけしきどもを御覧ずるに、【野分】、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。
 花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、あなわりなと思ひ騒がるるを、まして、草むらの露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり。おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を思し嘆く。

【野分】台風の古称。延喜十三年八月一日申の刻より大風樹を折り屋を破る。暴風。八月は必ず大風の吹くなり。この野分にて秋の花皆色なくなれる心妙なり。 北村季吟源氏物語湖月抄』