数年前から『万葉集』四五一六首全部を色紙に書いています。描いていると言った方がいいか、おそらくどちらにも属するかと思います。
一首ずつ一枚の色紙に筆ペンで書き、絵も添えて描いています。必ず書画一体です。となりますと、俳画のようなものかと言うと、確かに似ています。ただ、歌画なるものは確立されていませんので、名称もありません。インターネットで「歌絵・歌画」を入れても何も出て来ません。
したがって、私だけが使っている、一般には通用していないものです。文字どおりで分かってはもらえますが、熟してはいません。
更に、「万葉歌絵(絵)」となりますと、これは私しか試みていないものかと思っています。万葉集に詠まれたものを素材に絵画だけを描いている画家はたくさんいます。畏れ多い日本画家の優れた作品は数多くあります。また、書家による万葉歌を書いた書道作品も数限りなくあります。いずれも芸術・美術作品で、私には及びもつかないものです。
そうした美的作品を書(描)くつもりは私にありません。それでは、何のためにしているのかと、反問されれば、以下述べるようなことになります。
万葉の歌を味わう場合、朗唱ということが故犬養孝先生を初めとして広く唱導され、万葉愛好家には周知のことであります。また、「声に出して読む」現象が異常なほど一般にゆきわたり、それはそれで結構なことに違いありません。
書くことに関しては「えんぴつで奥の細道」を皮切りに古典名作中心に本文を写すのが流行っています。私の場合、「筆ペンで万葉集」を書いていると言っても、これを真似したものではありません。原典・原文を大切にして「書く」ことで作品そのものに迫る、という精神は同じになるでしょうか。 その歌を読んでのイメージをふくらませ、歌の心を描ければ理想的だと思いますが、その才能もゆとりもない私は、詠まれている中心素材を一つにしぼって形・色を付けて描くだけです。あえて念を入れないようにしています。それは、絵画作品ではないからです。もちろん、書いた歌文字も流麗に美しく、表面的な字体に見惚れられては困ります。
「きれいな絵」「きれいな字」と言われて、誰かにもらわれていく場合がありますが、表面的な美しさだけでもらわれていくのは不本意ですね。私の本意は「この歌好きです」と言われてもらわれていくことです。
その人の好きな歌の、その人のイメージを深めてくれる役割を私の万葉色紙が果たしてくれるならば、本望です。そういう作品ならいくらでも描いていきたいです。
この花が好き、この風景がきれい、そう言って、どういう意味の歌かも知らないで、持って帰る人もかなりあります。後でその歌の内容を知れば、どうでしょう。そんなことは知ったことではありません。
ひそかな恋心、激しい恋心、やましい恋心を歌ったものが万葉には満ち溢れています。そういう歌を玄関に、居室に、人目に付くところに掲げておくのは、はばかられるのではないでしょうか。万葉の歌の大方は、偽らざる真情が吐露されており、率直でいいのかもしれません。ただ、玄関先に飾るのはどうでしょう。書き手としては、そんな歌絵で家庭騒動を起こさないよう、願わざるをえません。
赤人の富士山の歌,和歌浦に鶴の歌などは、文句の付けようがないでしょう。人麿の夕浪千鳥の歌、家持の春の苑の歌、憶良の子を想う歌、額田王の熟田津の歌などの名歌は堂々と飾られて然るべきものでしょう。しかし、これらは知られすぎているので、手垢にもまれていない「輝く原石のような歌の方が新鮮みがあっていい」と、東歌・防人の歌などひなびた方言歌を私は奨めたいところです。
今年四月二十九日、今年も坂出市万葉会館では沙弥島万葉ウォークの一環として「万葉色紙展」が催される予定です。百枚の色紙額は会館で買ってくれており、私の万葉色紙を百枚展示します。今年は「万葉の四季」というテーマで季節の歌に花鳥風月の絵を添えている色紙です。今年は「万葉の風景を描く」と題して基調講演もしなければなりません。
なお、私宅には万葉全歌の色紙を押し入れに積み重ねています。宿願は地元有明浜二千米に一直線に並べ、全歌を鑑賞してもらうことです。潮風にさらわれるかもしれませんので、見に来てくれた人は一枚ずつ持って帰ってくれるといいと思っています。