万葉集関連
『万葉集』 20巻 4516首 すべてを色紙に書きました。
最近新聞は大袈裟な宣伝をしてくれましたが、本当はささやかな万葉植物園です。
佐伯山卯の花持ちし愛しきが 手をし取りてば花は散るとも(1259) 霍公鳥来鳴き響もす卯の花の 伴にや来しと問はましものを(1472) 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥 佐保の山辺に来鳴き響もす(1477) 皆人の待ちし卯の花散りぬとも 鳴く霍公鳥我れ忘れめや(1484) …
常ならぬ人国山の秋津野の かきつはたをし夢に見しかも(1345) 住吉の浅沢小野のかきつはた 衣に摺り付け着む日知らずも(1361) 我れのみやかく恋すらむかきつはた 丹つらふ妹はいかにかあるらむ(1986) かきつはた丹つらふ君をいささめに 思ひ出でつつ嘆きつ…
鹿持雅澄 (寛政3.4.27 ~ 安政5.8.19 )は 江戸後期の国学者,歌人。土佐藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派【武市瑞山】の叔母。鹿持は本籍地の名。『万葉集』注釈に生命をかけ,生涯土佐国を出ず,ほとんど独学で学問研究に励んだ。尊皇論者鹿持雅…
葦辺なる荻の葉さやぎ 秋風の吹き来るなへに 雁鳴き渡る (『万葉集』巻20ー2134) 今は春たけなわ、葦の新芽が一斉に出ようとしています。 ここは讃岐の西端に近く、予讃線鉄橋が架かる柞田川河口。 わが剣持万葉植物園に、ただ今この葦(または、荻)を植え足…
三豊市山本町菅生神社門柱左右に『万葉集』の歌が一首ずつが刻まれている。 たらちねの母に障らばいたづらに汝も吾も事成すべしや (巻11ー2517 作者未詳) 中臣の太祝詞を言ひ祓へ贖ふ命も誰が為に汝(巻17-4031 大伴宿祢家持)
六年 甲戌 ( きのえいぬ ) 、 海犬養宿禰 ( あまのいぬかひのすくね ) 岡麿が 詔 ( みことのり ) を 応 ( うけたまは ) りてよめる歌一首 御民 吾 ( あれ ) 生ける 験 ( しるし ) あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば (巻6ー996) 昭和15年大喜多勘学氏によ…
柞田川沿いの「ほよ」 2010/5/26(水) 午後 10:21入力 約一年前、万葉仮名で書いた「ほよ」の歌も消えかかっていた。 あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿(ほ)くとそ」 (巻18ー4136) 作者は大伴家持 「山」は「二上山」(高岡市)と想定され…
現在我々が嗅覚として「匂う」と使っている動詞。『万葉集』では古語「にほふ」の用語例が75回出てくる。主として視覚に用いられている。かの有名な奈良の都を讃えた歌 あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり (巻3ー328)小野老 (青丹吉 …
額田王、近江天皇をしのひて作る歌 (万葉集巻4ー488) …本日のみとよ万葉講座で献呈予定…
春の野に菫摘みにと来し吾そ野を懐かしみ一夜寝にける 赤人 お好きな万葉の歌 虫が知らせたのでしょうか、先ほど書いたばかりの色紙です。 明後日、万葉講座で献呈用色紙四十枚の一枚です。
今夜10時からのNHK「万葉集」特別番組、ご覧になりましたか?
新しき年の始の初春のけふ降る雪のいや重けよごと(巻20ー4516 大伴家持) (新しい年の始めの、初春の今日降る雪のように、良いことが積み重なりますように) この時の家持をとりまく状況はたいへん苦しいものだった。橘奈良麻呂のクーデター計画の失敗で親友…
2月5日(土)13時30分~15時10分 高松市菊池寛記念館にて 文藝講座「平城遷都1301年」のテーマで行いました。 平城遷都主導者は、女帝母子【元明・元正】でした。奈良時代の国家基盤を築いたのは、この 二女帝(キャリアウーマン及びアラフォー女性)によるも…
坂本竜馬の「龍馬」の起源は『万葉集』の下記の歌に発するかどうかは分からない。それはともか「龍の馬」とは、足の速い駿馬。 龍の馬も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため 龍の馬を 我は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のため 『万葉…
『万葉集』には120首ほどの梅を詠んだ歌が載せられています。その中の3首だけですが、 書き初めで書いてみました。本日誕生日の花は「ウメ」、花言葉は「澄んだ心」となっています。
昨年、東北歴史博物館で資料を入手していた「大伴家持の直筆」を紹介したい。 「中務大輔大伴宿祢家持」「寶亀三年正月十三日」と読める。
本日、柞田川河原に万葉の歌、短冊にして、葦に吊るす。次の3首である。 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴きわたる (巻10ー2134) 葦の葉に夕霧立ちて雁が音の寒き夕し汝をは偲はむ (巻14ー3570) 秋萩の花野の薄穂には出でずわが恋ひわたる隠妻…
あをによし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり 平城京遷都1300年が過ぎ、新たな1301年に入りました。 この時代は「女帝の時代でした。元明女帝は、息子の文武帝(27歳)に死なれた後、中継ぎとして頑張りました。藤原宮から平城宮に都を遷し、奈良時代…
『万葉集』巻1ー78~90の歌群に平城宮遷都の状況が伺える。 *太上天皇=元明天皇説が有力 和銅三年 庚戌 春三月 藤原の宮より寧樂の宮に遷りませる時、長屋の原に 御輿 停 めて 古郷 を 廻望 したまひてよみませる 歌 ( 一書ニ云ク、太上天皇御製ミマセリ)…
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ (巻1ー64) 葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念 慶雲3年(706)に難波宮にいた志貴皇子が、京のことを思って詠んだ歌
『万葉集』の最終歌(巻20ー4516)が、因幡(鳥取市国府町)の国庁で、天平宝字三年(759) 正月一日に詠まれた歌であることは、周知のことである。その解説をするのは、屋上屋を重ねることで、ヤボというものだ。「文学が堕落すると、評論や説明がのさばる」と言…
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ (巻18-4136) 大伴家持 山の梢のほよ(寄生木)を採って髪に飾るのは千年の長寿を祝っ ていることだ。(黄緑色の美しく輝くほよに呪力を感じたのであろう) 宿り木の実は真珠のように美しく、鳥たちが…
賀状に載せる万葉賀歌を品定め中
『万葉集』赤人 絶唱「不尽の歌」 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留 田児の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける 山部赤人 (巻3ー318)
万葉植物「ほよ」の絵手紙来たりけり ほよ 花言葉「困難を克服する」 あしひきの山の木末のほよ取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとそ 大伴家持 『万葉集』には「ほよ」の歌は、この一首のみ。
すでに斉明(皇極)女帝の牽牛子塚古墳は発見されていたが、この度その孫娘(大田皇女)と推定される石室がその近くに確認された。「越塚御門古墳」と名付けられる。 ―中皇命(斉明天皇) の紀の温泉に徃せる時の御歌 君が代も我が代も知らむ磐代の岡の草根をいざ…
『万葉集』に光明皇后の歌が三首ある、その中の一首 「我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(巻8ー1658) 夫聖武天皇を想う「冬相聞」の歌として広く知られている。 。
「ほよ」はヤドリギ科の常緑低木のヤドリギ。榎、栗、桜、欅などに寄生する万葉植物。 あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ (巻18ー4136)