宗鑑と一夜庵
本日11月3日、宗鑑没後456回忌の法要、俳句会が行われた。 山崎 宗鑑(寛正6年 ~天文22年10月2日)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の出身とされるが、本名・出自については諸説あり定かではない。現在、終焉の地観音寺市興昌寺では11月3日を忌日と…
下記の証言に感謝します。 【参照】 一 夜 庵 の 記 高 浜 虚 子 ー俳誌「ホトトギス」(大正14年7月号)に掲載された記事ー 山崎宗鑑がこゝに住まつて居つたといふ庵が、今でも讃岐観音寺(地名)の琴弾公園の山の中腹に残つて居る。観音寺(梵刹)の上…
『367日 命日大事典』(日外アソシエーツ)に記されている 山崎宗鑑 7月22日命日 これは正しくない。 真珠庵過去帳「宗鑑」を山崎宗鑑と信ずれば、それでいいが、断定はできない。
~西讃を歩く~ 1 宗鑑と一夜庵 一夜庵は俳祖山崎宗鑑が晩年を過ごした草庵である。室町末期、興昌寺の住職梅谷和尚を頼って、京阪山崎から移り住んだ。遺筆として、当寺に紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜に…
観音寺市八幡町興昌寺山頂に「山崎宗鑑御墓」の表示はあるが、 確たる証拠はない。 ただそう信じているだけである。 宗鑑の墓に花なき涼しさよ 虚子 左右の墓は誰のものか、まったく分かっていない。
俳諧の始祖・山崎宗鑑の400年祭は、昭和26年11月に観音寺市興昌寺【一夜庵】 で行われた。その記念碑の碑陰に当地の俳人、幽石・琴邨・山石の奉納句が刻まれている。 日本の俳祖・宗鑑終焉の地 【一夜庵】 ー香川県観音寺市八幡町ー 芭蕉は訪れていませんが…
『犬つくば集』鈴木 棠三・校注 連歌という名を聞いただけで、敬遠される方が多い。俳句・短歌人口より更に少ないはずである。はっきり言って「連歌・連句は滅んだ」のだ。 更に、品性のない「犬つくば」という山崎宗鑑の作品など、千人に一人くらいしか振り…
『俳諧史考』尾形 仂 文芸ジャンルとしての連歌・俳諧の専門書であるが、一般の読者にも分かり易く書かれている。題名からして少し専門的な「狂言を通して見た初期俳諧」「宗鑑と守武」「宗因と伊勢」「軽口の俳諧」「蕉風への展開」「芭蕉と『埋木』」「蕉…
一夜庵への道 ~俳諧への招待~ 〔早苗塚〕 琴弾八幡宮鳥居横 早苗とる手もとやむかし志のふ摺 はせを 芭蕉が「奥の細道」の旅の途次元禄二年詠んだ発句。 この直筆短冊を小西帯河が持っていたのを一茶の師二六庵竹阿の指導でここに刻んだ。後に再建されて…
7月9日(土)9時~11時 観音寺市八幡町 一夜庵 「小学生俳句教室」 ~俳句の始まり~ 日本で初めて俳句を作った人は? 【山崎宗鑑】と言われています。その俳人が晩年を過ごした所がここ観音寺市【一夜庵】です。そのようないわれのある所で住んでいるのです…
『宗祇』奥田勲 『新撰筑波集』の著者として、連歌を「中世詩」の最高域まで高めた室町時代の連歌師。宗祇の生涯、宗祇をめぐる人々、宗祇の遺したもの、宗祇伝説にまで及ぶ宗祇伝である。 本格的に連歌に志したのは30歳(1450年)と言われている。連…
『俳文学大辞典』 連歌から現代俳句まで総称すれば「俳文学」その辞典であるのがいい。「俳諧辞典」ならば、古典的であり、「俳句辞典」ならば、近現代的なものになるからである。 「宗鑑」も約1ページ、しっかりと入っているし、永田耕衣も半ページ割いて…
宗鑑の一代記をまとめた「俳諧の風景」第16回香川菊池寛賞受賞。 昭和56年3月6日菊池寛34回忌に授賞式、献花があった。 同人誌「小説無帽11号」(昭和55年10月発行)に掲載された100枚の小説。
俳祖山崎宗鑑終焉の地讃岐は興昌寺境内【一夜庵】であります。 2012年4月28日、一夜庵保存会の総会がありました。 この日は、一夜庵が開放されて、心地よい春風が吹き込んでいました。
山崎宗鑑は晩年を一夜庵(観音寺市八幡町・興昌寺境内)に棲み俳諧一途の生涯を送りました。
ー宗鑑翁四百年忌記念出版ーこの副題のある『香川縣俳諧史』は、昭和25年発行された。 発行所は至善園(香川縣三豊郡観音寺町甲2ー875) 発行者は松尾明徳(故人) 共著者・福家惣衛(故人) 附録「讃岐年譜」への明徳自筆書き入れが貴重である。遺族より原本を譲…
俳祖山崎宗鑑を詠んだ有名俳人の発句 (4句) 有り難き姿拝まむ燕子花 芭蕉 宗鑑に葛水給ふ大臣かな 蕪村 祇や鑑や花に香たかん草むしろ 蕪村 宗鑑が塔婆も見たか鉢敲 一茶
禅宗東福寺派興昌寺境内のカエデは、今紅葉して最も美しい時季です。
俳諧の祖「山崎宗鑑」の墓は、興昌寺山の山頂にあります。 また、供養塔は、その山の麓「一夜庵」の傍らにあります。
紅葉がきれいなので今年も吸い寄せられました。 臨済宗東福寺派興昌寺境内は古刹の雰囲気を保っています 。 俳蹟一夜庵あればこそ、ここは雅の里なのです。
昭和25年3月16日、昭和天皇は観音寺市の生徳旅館に宿泊。その夜提灯行列をして陛下をお慰めした。その生徳旅館で陛下の食べた茶碗蒸しなどの料理で昼食をとった。それより、歩いて宗鑑が晩年を過ごした一夜庵を訪れ、宗鑑の遺墨に親しんだ。宗鑑の筆跡は宗…
〔郷土文学 〕 ここで言う「郷土」とは、観音寺市、または西讃、さらには香川県内という範囲である。また、「文学」とは「古来伝承されている古典詩歌作品、文学碑が中心になる。 〈観音寺市内〉 俳跡【一夜庵】…俳祖【山崎宗鑑】終焉の地、興昌寺境内 ①一夜…
俳諧の始祖と言われる山崎宗鑑が晩年を過ごした一夜庵(香川県観音寺市)は、観音寺市の一 夜庵保存会、文化財保護協会がその伝統文学を継承しています。江戸時代から現代にいたるま で数百年の間、脈々と伝わる関連資料も保存しております。それだけでなく、…
一夜庵保存会発足50周年記念として、この度『俳聖 山崎宗鑑 一夜庵』の復刻版が再版された。 本文33ページの小冊子。
今日文化の日は、俳祖宗鑑忌であります。天文(てんぶん)22年(1553年)(旧暦10月2日)死没を 11月3日に読み替えています。 観音寺市八幡町興昌寺境内の一夜庵に89歳の高齢で亡くなりました。 宗鑑没後、今年は457年になります。また、一夜庵保存会が発足してち…
山崎宗鑑の筆になる菅原道真の詩の一節が残されている。 史跡としての“大宰府政庁跡”の別称が“都府楼跡”。その由来は菅公が“大宰府政庁”のことを以下のように詠ったからである。 都府楼看纔瓦色 観音寺只聴鐘声 (都府楼はわずか瓦の色を看(み) 観音寺はただ…