泣けてきたこと

愛国心】教育がなされた。小学校ではなく国民学校と呼ばれていた時代で、耐乏生活が強いられた。「欲しがりません、勝つまでは」の時代である。制服はなく、個人であつらえた。履物は草履か下駄であった。近くには軍用飛行場ができ始め、村の内外から大勢の大人たちが駆り出されていた。警戒警報のサイレンが鳴ると、防空壕の中に逃げ込んだ。空襲警報のサイレンが鳴るとバリバリと敵機グラマン機の機銃掃射の音がした。何人かは死傷した。

 国民学校一、二年生の時代である。軍隊式教育と言ってしまうほどの一斉教育ではなかった。隣の組は樫の棒を持った男先生だったが、自分の男女組は若くて優しい女の先生だった。放課後であったか「クニヲマモレ」と半紙に書かされた。そのことは全く忘れていたのだが、戦後六十年して、その先生からその一枚が返されたのには驚いた。そんな教育をしていた自分が恥じられて、ずっと仕舞いこんでいたのに違いない。黙って返してくれた。その思いやりに泣けてきた。十五年前のことである。先年その先生も亡くなられたという。

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