風景私論

 風景画を描いている時だけ、自分は生きていると思う。室内に閉じこもって人物や生物に対面していても、心の隅々まで満たされていない。個物に宿る命に触れるほどの繊細な神経を持ち合わせていないからであろう。ところが、それらから解き放たれると、水を得た魚のように蘇る。人間嫌いの風景好きという点で、自然の懐に抱かれて抱かれて恥じない。その光景は古代の歌垣のようにも思ったりする。

 風景は人の肌の匂いがする。そのような自然をしか風景とみなさないからかもしれないが、荒涼として私を拒絶する自然は風景ではない。温かく包み込むものが風景の実体かと思う。『新明解国語辞典』は言う。風景とは「目を楽しませるものとしての、自然界の調和の取れた様子」であると。『広辞苑』をついでに引いてみる。「けしき。風光。」これではどうにもならぬのである。再び前の辞典で「景色」の説明を確かめる。「鑑賞するに堪える、自然物の眺め、(生産者としてではなく、余裕の有る傍観者の立場からする言葉)」なるほどとうなずく。「風景」を「景色」と言い換えて終る安易さを許していてない。この二語の微妙な違いを暗示しており、愉快であった。私流に解釈すれば、「景色」は小手をかざして眺めるものであり、眺めるものとの間に距離感がある。一方「風景」は、小手をかざすのがはばかれるような空間の広がりであり、眺める者を包む融和感がある。「景色」鑑賞の対象物であり、「風景」は遍在的場面である。

 風景画家は単に景色を描いているのではなく、内的必然においては風景を描いている。風景に溶け込み一体感を抱いている。それは睦まじく自然と対話し、その表出に心を込めている。